『焚書坑儒のすすめ』

公開日:2020年8月7日 更新日:

『焚書坑儒のすすめ』(西部邁・著、ミネルヴァ書房、2009年)。サブタイトルは、エコノミストの恣意を思惟して。
『焚書坑儒のすすめ』(西部邁・著、ミネルヴァ書房、2009年)。サブタイトルは、エコノミストの恣意を思惟して。

30年前と言っていることは変わらず

30年ほど前に『朝まで生テレビ』に出ていた著者が楽しそうに議論していたのをワクワクしながら視聴していた学生の頃を思い出します。語り口が明快で根本的でそしてユーモアも交えながらやり取りする姿に魅せられて、出演するテレビだけでなく本も何冊も読んで、社会をどう見ていけばいいのか教わった気がしています。

社会人になってビジネスにかかわってくるようになると、評論しているよりも自分が何をするのか、のほうにどんどん重点が移ってくると、西部さんのことも思い出すこともあまりなくなりました。目の前のビジネスをするのにあまり関係なかったというところでしょうか。

2008年のリーマンショックや東日本大震災などを経て、その事象そのものよりも、それに対する社会の反応や、あり方に何か不気味なものを感じるようになっていました。社会の動きもますます早くなり、高度国際化の中で不安定化していきそうな勢いです。

まともな眼をもって社会の動向をみることができないと、ヘタな手を打ちそうな感じがしていました。いまの社会をどう理解していけばいいのか? どうもビジネス書の中にはその答えはありそうもありません。

そんなとき、東京MXテレビで、『西部邁ゼミナール』をやっているのをたまたま見つけました。一見して、30年前と言っていることが変わらないことに妙に安心しました。

社会の状況が変わり素材は入れ替わり立ち代わりするけれども、批評する西部さんの視点に変わりがない。すごいことです。しかも30年以上も言論界で存在感を出し続けていました。

ただ、「私の声が現場に届くという能天気はとうの昔に振り払ってもおります」と本書にあります。2018年1月自裁死する直前の『西部邁ゼミナール』でも「何を言っても変わらなかった」とこれまでを振り返っています。

もっとも、著者だけに限らず、誰が何を言っても変わらないぐらい、一回大きな流れができると、その方向に行ってしまう恐ろしさを感じます。

流れは変わらないでしょうが、われわれとすればいま起こっていることを理解できれば適切な対処をすることはできるかもしれません。そして、一人一人の適切な対処が多く積み重なっていけば、流れが変わらないとも限りません。

物事の一面からしか見ようとしないエコノミスト

本書はリーマンショックの後に書かれています。著者の眼にはどのように社会が映るのか。

いま訪れている危機というのは、単にマーケットの状態が至るところで閉塞しているなどという生やさしいものではありません。その市場行動を行っている現代人の意識そのものが、あるいは現代人の社会関係が、もっというと、文化関係も政治関係も、すべて、一種の陥没状態に入りつつあるように見える。その意味では、100年に一度の経済危機というよりも、近代の出発点をフランス革命とするならば二世紀以上にわたって、あるいは啓蒙主義の時代も近代に含めるならば300年ぶりに、近代始まって以来の最も深刻な危機なのです。経済だけでなく、「近代主義」という人間の考え方や振る舞い方の総体が、収拾もつかないほどに破裂し、溶解してしまっている。つまり「近代そのものの危機」が訪れたのではないかとすら私には思われます。

近代主義とは、「技術の合理」に基づく産業主義の経済と「多数者の正義」を奉じる民主主義の政治とを理念とする考え方および振る舞いのことだとしています。

2009年刊ですが長期的視点で見れば今もかわりありません。こうした現代の理解のもと市場については下記のように指摘しています。

国家の軽視から国家の重視という歴史の転換点に、今、われわれは立っているのです。

市場の土台や枠組みが主として政府の指導する公共活動によって保証されていなければ、市場そのものが安定的には存立も存続もしえないのです。一言でまとめれば、政府の公共活動があってこその市場活動といわなければなりません。

市場の土台・枠組みにかんする長期的な国家の保護、それが今後の経済に求められるということです。

このように説きます。でも「何を言っても変わらなかった」の通り、そうした流れにはなっていません。

何を言っても変わらないが、見当違いのことを言っているエコノミストの無思想と無責任も放っておくこともできず、しかも、そのエコノミストに共鳴している現代の奇怪さをあぶりだそうとしたの本書です。

焚書は「書を燃やす」こと、坑儒とは「儒者を坑に生き埋めにする」を意味します。生き埋めとは恐ろしいことです。古代中国の秦代に発生した思想弾圧の状況を指しての言葉です。

著者の坑儒の対象はもちろんエコノミストです。なぜなら「ほとんどあらゆる判断と予測において間違っていた」にもかかわらず、無思想で無責任に恥も外聞もなく発言し続けているからです。

なぜ判断と予測を間違のか? 経済とは経世済民という広い視野と長い視線を必要とする作業であるのに、エコノミストの精神領域が極度に狭く、市場理論という狭い領域から出てこようとしないからだと断じます。

論壇に登場した時から一貫して、スペインの思想家であるホセ・オルテガの言を借りて、スペシャリストであることに満足し、物事の総体をみる能力もみようとする気力もない人々が大衆で、その代表例がエコノミストだというわけです。

大切なのは、地方ではなくて自律性を持った地域

エコノミストからは聞けないであろう、著者の見解を少し列挙してみましょう。

  • 20世紀から21世紀にかけて起こっているのは、グローバリズムではなくて、「高度国際化」にすぎない。
  • グロバルスタンダードはアメリカン・スタンダードにほかならない。これは帝国主義のこと。
  • アメリカは個人主義の方向での左翼実験国家、旧ソ連は集団主義の方向での左翼実践国家。純粋化された近代主義としての左翼主義は崩壊しつつある。
  • 将来の不確実性はすべて確率的に予測できるということはない。不確実性の大半は予測不可能な危機で、それに対応できるのはITではなく、HO(人間組織)である。
  • 急進的変化が礼賛されて、それがヴェンチャー・スピリットとしてもてはやされるようになると、情報格差とそれを利用しようとする詐欺行為が状態となる。
  • 企業とは、それに参加するさまざまな構成員の「組織人格の集合体」である、と規定すべき。

西部さんは「何を言っても変わらなかった」と言うかもしれませんが、感化された人は数知れず。これからもそれぞれの分野で社会に向かって同じようなことを言い続けてくれる人も多くいるはずです。

最後に、田舎暮らしにも関係があるところで言うと、地方分権にも触れている個所があります。

地方という概念は、中央あるいは広域があってはじめて成り立つ概念です。「地方分権」には、それと表裏一体をなすものとして、「中央集権」という概念がある。さまざまな地方が分権体制のなかでバラバラになってしまったら、お互いの連絡がなくなり、地方間の衝突が顕在化して国家が崩壊します。そして、国家が崩壊すれば、地方もまた崩壊する。
大切なのは、地方でなく、リージョナル(地域的)なのです。では、リージョナルとは何でしょうか。それは、自律性を持って、中央や他地域から自由に動ける地理的範囲と定義できます。地域は、ある程度の「自給自足」を有しているということです。

地域は域際関係あってこその存在です。そして、さまざまな域際関係に何らか統一した秩序を与えるのは中央政府の集権的な政策によってです。地域は一方で分権を要求し、他方で集権を必要とするという二面性から離れられないのです。

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執筆者:有賀知道

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