『小農はなぜ強いか』

公開日:2021年8月15日 更新日:

著者の言う小農は、規模の大小に関係なく、「家族が中心になって行っている農業的な生活のすべて」を意味しています。そして、小農である農家こそ、人間の本来的な生産と生活の姿なのだから弱いはずはないと説きます。

『小農はなぜ強いか』(守田志郎・著、農文協、1975年)
『小農はなぜ強いか』(守田志郎・著、農文協、1975年)

むらの原理と都市の原理

守田志郎さんの名前を知ったのは、以前紹介した『自給再考』の執筆者の一人である農林家の栗田和則さんが師と仰いでいると書いてあったのがきっかけです。

師は「山村での儲かる農業から、豊かに暮らせる農業」への転換を導いてくれたと述べています。

「1970年代に始まった山村の過疎化の流れは、1980年代後半に再度顕著になった。山村は水清くして人貧しいと言われ、住む者もまた、山村では仕事がない、金が取れない、未来がないと嘆く。だが本当に山村は貧しいのだろうか。
取るお金の量ではなく、どんな暮らしができるかを尺度にするなら、山村は貧しくはない。「暮らしを尺度に豊かさを考える活動」をしたい。

もっとも『自給再考』を拝見するに、栗田さんさん自身、豊かな農的な暮らしを楽しみながらも、ビジネスセンスは相当なものです。その人が師と仰ぐのはいかなる人物か?

最初に読んだのは、『日本の村』です。田舎育ちのワタクシもこれを読んでから村に戻ってくればよかったと思ったものです。田舎を離れるのが長すぎたせいか、村に戻ってきた当初、消費者・権利意識を漂わせて村の人と接していたものです。でも、一回こっきりの関係ではなく、狭い村のこと持ちつ持たれつの関係です。後々気まずい思いをしたことが何度となくあります。

部落というものが波をおもてに立てないようになっているのは、その慎み深さからであろうが、人々が、今日も明日も、そして将来ずっとその部落の中で同じ顔ぶれで生産と生活を続けていくようになっているからだと思う。江戸っ子のきっぷの良さなどというが、いつでも荷物をたたんで長屋から出て行くという生活の軽さがそうさせるであろう。そして、そこには生産がないということも裏腹なのだと思う。

都会育ちの人が田舎暮らしをするにあたって理解しておきたいところでしょうし、ずっと田舎にいた人でも田舎らしさを再確認するためにもいいかもしれません。

守田志郎さんの流れをくむ原田律さんは、『むらの原理 都市の原理』の中で「むらは扶助と義務とで成り立つ自立の社会であり、都市は権利と管理で成り立つ分業の社会」と喝破しています。

さて、次に読んだのが『小農はなぜ強いのか』です。著者の著作案内を見ていて、タイトルに吸い寄せられるようにして読み始めました。

小農はなぜ強い

著者の言う小農は、所有・経営規模の大小に関係なく、「家族が中心になって行っている農業的な生活のすべて」を意味しています。そして、小農である農家こそ、人間の本来的な生産と生活の姿なのだから弱いはずはなく、弱いと思いこませようとする圧力、「遅れた農業・農村」「都会並み」「大型化」「産地化」「進歩・成長」に惑わされそれにのってしまえば生活の貨幣依存度がますます高くなり、それこそ不安定になり地に足がつかないような生活になってしまうと説きます。

例えば「○○は成長性がある作物」と言われそれを追うということは、その作物を全部お金にするということが前提になります。そして状況に合わせて右往左往する羽目になります。

どれが成長作物でどれが衰退作物か、という問題の立て方を、一度完全に忘れてみたらどうだろうか。自分にとって必要な作物は何か。農家の人たちがそれぞれに考えて、作物を選ぶ、そこからはじめるのである。

もちろん地域や土地や状況によって何でも作れるわけではないが、たくさんの種類の作物をつくるようにする。土地に合い他と比べて良さそうなものがあればいくらか余計に栽培したりする。ともあれ、まず第一に自分たちの食べるもの、その次に売るものとして作物を見るという順序です。

そして、「地力は作物が作る」のだから、いろいろの作物は、互いに助け合い地力を養うような手順で作らなければならない。これこそ農業の生活の長い歴史の積み上げが作り上げた農法の神髄と説明します。

そしてもう一つ「作物は自分で自分の面倒をみる」をよくよく理解して展開すること。ハワードの『農業聖典』でこの内容に感動して、有機農業でもこのことを踏まえて気をつけて進んだほうが良いと強調します。

ここから循環論に入っていくことになります。農業の循環の話は他でも見聞きしますが、著者の話が私には一番しっくりきます。ある作物を増やしていくか減らしていくかは、自分の家の循環をまっとうするうえでどうするかを決めていく、というのが本当の姿と説きます。堆肥の話も、作付け、輪作、田んぼ、家畜、還元産物(例えば、米作の糠とか)も循環の中に位置づけます。

もっとも、こんな考え方されたのでは都会人からは、自分たちの食料はどうなるのか、と批判の声もあがりましょう。

循環の農業は、無理なく育てられるものを育てる関係の中での生活なので、そこに「自給」の言葉を持ち込むのは都会の言葉の押売りのようなもの(略)
一軒一軒の農家で、それぞれの地域や田畑の大きさや家族の状態に合った循環の農業ができあがっていくその結果として、都会の人間の食べものがどうなっていくか、そういう順序で考えていく性質のことなので、都会の人間の「食料の自給」のために農業をどうする、という順序では逆立ちの論議になってしまう

循環の農業を営んで、その循環の回転の中から、自然にはみ出してくる米やら卵やら肉やら大豆やらが都会に回っていく。

たしかにこれで都会の食料が賄えるかどうか、大規模・産業化も一方で必要かもしませんし、やりたい人もいるでしょうが、私の住んでいるような山間の田舎では、循環のほうがしっくりきます。少なくとも私にはそうです。

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執筆者:有賀知道

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