どんなに良い栄養学の知識があっても日々の生活の中に落とし込めてこそ価値を発揮します。うおつか流は落とし込むのにうってつけです。
日々の料理をどうするか
前回紹介した、『天然の食卓』は、食卓といいながら料理に関する話はでてきませんでした。巻末には、総合ミネラルを使って育てた野菜や果物の入手方法として、生産者のリスト付きで注文ができるようになっていました。これはこれで健康的な食材が手に入ることになるのでありがたいことですが、食卓ということからしますとちと寂しい。
これまで紹介してきた『伝統食の復権』『豊かさの栄養学』についても、食と健康に関する理解と、栄養のとり方についての指針は与えてくれます。
で、どうするのか?
これはまた別問題です。でも、これが一番大事なところでしょうが難しい。何よりも日々の食事に関わってきます。
復習がてら律義に日々の調理に活かそうとすれば、『豊かさの栄養学』の著者である丸元淑生氏が書いた『丸元淑生のクックブック』(文芸春秋)を参考にするのが最適かもしれません(この本も後日取り上げますが)。
でもその前に取り上げたいのが魚柄仁之助さんの本です。なぜかというと、『豊かさの栄養学』を読む気になったのは、 魚柄さんが『うおつか流 清貧の食卓』の中で勧めていたからです。要するに、魚柄さんは、こうしたことをちゃんと踏まえた上での日々の料理の話をしてくれるということですから。
日々の調理に活かすということで言いますと、魚柄さんが書いた本は山ほどあるので自分の好きなテーマから入っていけるのもいいところです。 具体的な料理法の本から食生活全般、評論に至るまでさまざまです。
ワタクシの本棚にあるもので言うと、前に紹介した『台所リストラ術』や『魚柄の料理帖』『ひと月9000円の快適食生活』『なんで美味いの?』『食べ暮らしダイエット』『笑って死ねる安全食実践講座』『食べちゃる』『冷蔵庫で食品を腐らす日本人』なんていうのがあります。
個人的には、初期の頃の著作がエネルギーとハングリー精神あふれていて好きですね。
うまくなければ長続きしない
『うおつか流 清貧の食卓』では、「油脂離れの勧め」など豊かさの栄養学を踏まえた話もいたるところででてきます。そのほか蘊蓄もチラホラと。たとえば玄米の話(抜粋・要約)。
白米より玄米のほうが、健康によいと言われています。これは、玄米に含まれる栄養素が、精米して白米になるとかなり減少してしまうからです。そこまでわかっていながら、なぜ玄米を食べないのでしょうか? まず、私の好みの問題ですが、玄米も好きだけど、白米のほうが自分の好みに合っています。玄米を白米にすると、含まれる栄養素はたしかに減少します。しかし、カルシウムの体内蓄積量をみますと、玄米食だと白米食の三分の一しか蓄積されないというデータもあります(高橋晄正『自然食は安全か』(農文協)による)。マグネシウムは玄米食の場合、排泄してしまう量のほうが多くなるとのこと。こういったこともふまえたうえでの「玄米食」でないと、ただなんとなく健康っぽい、といった、「漠然とした健康観」でしかなくなってしまいそうです。
それと、玄米の消化吸収の問題があげられます。消化吸収するには、まず、ひと口一〇〇回くらい噛む必要があります。私は、玄米を一〇〇回噛む心のゆとりは、まだ持ち合わせていない未熟者です。そこで白米の補助として押し麦や、緑豆、場合によってはオートミールまで混ぜて炊いています。
好みを優先させるというスタンスもいいです。
どんなにすばらしい食生活であっても、続けられてこそ意味があります。
持続性を持つには、健康的であり、手軽であり、おいしく安くつくって食べられるという条件が必要です。だって、それだけ条件がそろえば、やめる理由、やめたくなる理由がないからです。
元来単純な私は、自分をそう言いくるめ、その条件を満たそうと、あの手この手でやってきましたが、完全にはめられた純な私。おいしい、楽しい、無理しないで、現在進行中。
たしかに、どんなに栄養があろうが、うまくなければ長続きはしません。金がかかり過ぎても(金持ちは別にして)長続きしません。調理に時間がかかり過ぎても(大多数の人は)長続きしません。
健康をふまえた日々の調理の参考にするのに、うおつか流はうってつけです。